嫁と息子と日常のなにげない風景と・・・。

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2011年 03月 31日

『陸前高田市』

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キャピタルホテルの裏側まで、海岸線が迫っている。↑
ホテルと海の間にあった松林、堤防は全くなくなっていた。
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廃墟と化した高田高校。↑
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4階まで水に浸かったアパート。↑
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自宅跡地。基礎しか残っていなかった。↑
沢山の思い出の品が、濁流にのまれた。
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父が祖母の手を引いて駆け上った、第一中学校前の山。かなりの勾配だった。↑
何人かの人がこの山に逃げ込んだが、父と祖母はその最後だった。
20mほど後ろを逃げていた男性は、目の前で濁流にのまれたそうだ。
本当に生死の境目を逃げ延びたのだと思い、背筋が凍った。




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by sleggar1121 | 2011-03-31 20:43 | 東日本大震災 | Comments(0)
2011年 03月 28日

『陸前高田市』

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がれき越しの夕陽↑
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高田駅からメインストリーを望む↑
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成田山から見た気仙町↑
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高田体育館↑
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高田町森の前付近、旧45号線にかかる高架道路上から酔仙方面↑





3/11 PM2:46
地震と津波がすべてを奪ってしまった。

陸前高田のシンボルだった高田松原も、思い出の詰まった母校も、よく遊んだ広場も、友人や恩師も・・・。
その日まで、誰もが平穏にそれぞれの生活を送っていた。

そんな平和な何千、何万人の人生を、怒号と共に押し寄せる漆黒の波がさらっていってしまった。

それはあまりにも突然に、無差別に、圧倒的に、そして情け容赦なく人々の人生を奪っていった。


残された高田の町並み。

実際にその前に立っても、とても信じられない、受け入れることが出来ないほどの惨状。

この世の光景とは思えない、これが人間の住んでいた場所なのかと思うような状況だった。


こうして、高田のことを思い出しながら文字を打つことすら辛くなる。

考えなくてもいいのならば、もう考えたくない。

この事を深く考えようとすることを、脳が拒む。

ウソだと言って、忘れてしまいたいとさえ思う。


でも、この目で見てきたものは真実。

受け入れなければいけない真実。




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by sleggar1121 | 2011-03-28 23:58 | 東日本大震災 | Comments(4)
2011年 03月 23日

『東北地方太平洋沖地震』

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3/22

今日から出社。
会社は見るも無残。
ロッカーというロッカーはすべて倒れ、天井も一部崩落、壁のひび割れ・落下多数。
ファイルは散乱し、誰のファイルだか、いつのものだかもわからない・・・。
うちの会社怖すぎです。
発生時会社に居なくて良かった。

うちの会社は、以前から少しの地震でも体感震度はかなり大きく感じるので、内勤の社員は相当怖かったと思う。

今日20Lの携行缶ゲット。
これを満タンにして出発する。
会社の人たちの好意で、物資も沢山手に入った。
明日は朝からスタンドならびます。


出発まであと3日




3/23

6時から並んで4000円分ガソリンを手に入れた。
車と半々だったから、携行缶満タンにならなかった。
明日も並ぶようかな・・・。


出発まであと2日



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by sleggar1121 | 2011-03-23 17:33 | 東日本大震災 | Comments(4)
2011年 03月 21日

『東北地方太平洋沖地震』

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今日も朝4:00起きでスタンドに並んだ。
20L補充できた。
明日、会社の上司から20L携行缶を借りて、満タンにすればガソリンの準備は完了。

物資は大きな避難所には届きつつある。
小さな孤立した避難所のことが心配だ。
出来ればそのようなところに、物資を届けたい。


出発まであと4日






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by sleggar1121 | 2011-03-21 16:41 | 東日本大震災 | Comments(2)
2011年 03月 21日

『RUNNING』

本日の走行データ
距離・・・約7.1KM
時間・・・0:44`25
平均速度・・・9.6KM/H
平均LAP・・・06‘14/KM



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by sleggar1121 | 2011-03-21 15:42 | Comments(0)
2011年 03月 20日

『東北地方太平洋沖地震』

今日は午前5時起きでスタンドに並んだ。
知人から借りた携行缶の列に並んだので、スムーズに買えた。
これで車満タン+携行缶10L確保。
あと携行缶20L×2コを満タンにして25日に出発予定。


スタンドで並んで周りの人と話をしていると、悲惨な現状が聞こえてくる。
海沿いでは改修されない遺体が浮いているとか、災害直後は救出されない被災者の声が、夜どうし聞こえていたとか、家を片付けに戻ると空き巣が入っていたとか・・・。
被災した現場では空き巣、窃盗などが横行しているようだ。
そんな話を面白おかしく話す輩や、冗談でも言ってはいけない事をへらへらと話す輩が見受けられる。
本当にがっかりさせられる。


最近は、高田の復興のために自分には何が出来るかをよく考える。
高田に帰って、今後の人生を高田のために尽くすものいいのかなと思ったりもする。
復興の道は長く険しいものだろうが、一歩一歩進むほか無い。

立教新座高校の校長先生の言葉を借りれば、
『鎮魂の黒き喪章を胸に、今は真っ白の帆を上げる時なのだ。』
今こそ力を集結して立ち上がる時だと思う。



※上記の立教新座高校の校長先生言葉は、とても力強く感動的なメッセージだった。下に転記する。


諸君らの研鑽の結果が、卒業の時を迎えた。その努力に、本校教職員を代表して心より祝意を述べる。
 また、今日までの諸君らを支えてくれた多くの人々に、生徒諸君とともに感謝を申し上げる。
 とりわけ、強く、大きく、本校の教育を支えてくれた保護者の皆さんに、祝意を申し上げるとともに、心からの御礼を申し上げたい。
 未来に向かう晴れやかなこの時に、諸君に向かって小さなメッセージを残しておきたい。
 このメッセージに、2週間前、「時に海を見よ」題し、配布予定の学校便りにも掲載した。その時私の脳裏に浮かんだ海は、真っ青な大海原であった。しかし、今、私の目に浮かぶのは、津波になって荒れ狂い、濁流と化し、数多の人命を奪い、憎んでも憎みきれない憎悪と嫌悪の海である。これから述べることは、あまりに甘く現実と離れた浪漫的まやかしに思えるかもしれない。私は躊躇した。しかし、私は今繰り広げられる悲惨な現実を前にして、どうしても以下のことを述べておきたいと思う。私はこのささやかなメッセージを続けることにした。
 諸君らのほとんどは、大学に進学する。大学で学ぶとは、又、大学の場にあって、諸君がその時を得るということはいかなることか。大学に行くことは、他の道を行くことといかなる相違があるのか。大学での青春とは、如何なることなのか。
 大学に行くことは学ぶためであるという。そうか。学ぶことは一生のことである。いかなる状況にあっても、学ぶことに終わりはない。一生涯辞書を引き続けろ。新たなる知識を常に学べ。知ることに終わりはなく、知識に不動なるものはない。
 大学だけが学ぶところではない。日本では、大学進学率は極めて高い水準にあるかもしれない。しかし、地球全体の視野で考えるならば、大学に行くものはまだ少数である。大学は、学ぶために行くと広言することの背後には、学ぶことに特権意識を持つ者の驕りがあるといってもいい。
 多くの友人を得るために、大学に行くと云う者がいる。そうか。友人を得るためなら、このまま社会人になることのほうが近道かもしれない。どの社会にあろうとも、よき友人はできる。大学で得る友人が、すぐれたものであるなどといった保証はどこにもない。そんな思い上がりは捨てるべきだ。
 楽しむために大学に行くという者がいる。エンジョイするために大学に行くと高言する者がいる。これほど鼻持ちならない言葉もない。ふざけるな。今この現実の前に真摯であれ。
 君らを待つ大学での時間とは、いかなる時間なのか。
 学ぶことでも、友人を得ることでも、楽しむためでもないとしたら、何のために大学に行くのか。
 誤解を恐れずに、あえて、象徴的に云おう。
 大学に行くとは、「海を見る自由」を得るためなのではないか。
 言葉を変えるならば、「立ち止まる自由」を得るためではないかと思う。現実を直視する自由だと言い換えてもいい。
 中学・高校時代。君らに時間を制御する自由はなかった。遅刻・欠席は学校という名の下で管理された。又、それは保護者の下で管理されていた。諸君は管理されていたのだ。
 大学を出て、就職したとしても、その構図は変わりない。無断欠席など、会社で許されるはずがない。高校時代も、又会社に勤めても時間を管理するのは、自分ではなく他者なのだ。それは、家庭を持っても変わらない。愛する人を持っても、それは変わらない。愛する人は、愛している人の時間を管理する。
 大学という青春の時間は、時間を自分が管理できる煌めきの時なのだ。
 池袋行きの電車に乗ったとしよう。諸君の脳裏に波の音が聞こえた時、君は途中下車して海に行けるのだ。高校時代、そんなことは許されていない。働いてもそんなことは出来ない。家庭を持ってもそんなことは出来ない。
 「今日ひとりで海を見てきたよ。」
 そんなことを私は妻や子供の前で言えない。大学での友人ならば、黙って頷いてくれるに違いない。
 悲惨な現実を前にしても云おう。波の音は、さざ波のような調べでないかもしれない。荒れ狂う鉛色の波の音かもしれない。
 時に、孤独を直視せよ。海原の前に一人立て。自分の夢が何であるか。海に向かって問え。青春とは、孤独を直視することなのだ。直視の自由を得ることなのだ。大学に行くということの豊潤さを、自由の時に変えるのだ。自己が管理する時間を、ダイナミックに手中におさめよ。流れに任せて、時間の空費にうつつを抜かすな。
 いかなる困難に出会おうとも、自己を直視すること以外に道はない。
 いかに悲しみの涙の淵に沈もうとも、それを直視することの他に我々にすべはない。
 海を見つめ。大海に出よ。嵐にたけり狂っていても海に出よ。
 真っ正直に生きよ。くそまじめな男になれ。一途な男になれ。貧しさを恐れるな。男たちよ。船出の時が来たのだ。思い出に沈殿するな。未来に向かえ。別れのカウントダウンが始まった。忘れようとしても忘れえぬであろう大震災の時のこの卒業の時を忘れるな。
 鎮魂の黒き喪章を胸に、今は真っ白の帆を上げる時なのだ。愛される存在から愛する存在に変われ。愛に受け身はない。
 教職員一同とともに、諸君等のために真理への船出に高らかに銅鑼を鳴らそう。

 「真理はあなたたちを自由にする」(Η ΑΛΗΘΕΙΑ ΕΛΕΥΘΕΡΩΣΕΙ ΥΜΑΣ ヘー アレーテイア エレウテローセイ ヒュマース)・ヨハネによる福音書8:32

 一言付言する。

 歴史上かってない惨状が今も日本列島の多くの地域に存在する。あまりに痛ましい状況である。祝意を避けるべきではないかという意見もあろう。だが私は、今この時だからこそ、諸君を未来に送り出したいとも思う。惨状を目の当たりにして、私は思う。自然とは何か。自然との共存とは何か。文明の進歩とは何か。原子力発電所の事故には、科学の進歩とは、何かを痛烈に思う。原子力発電所の危険が叫ばれたとき、私がいかなる行動をしたか、悔恨の思いも浮かぶ。救援隊も続々被災地に行っている。いち早く、中国・韓国の隣人がやってきた。アメリカ軍は三陸沖に空母を派遣し、ヘリポートの基地を提供し、ロシアは天然ガスの供給を提示した。窮状を抱えたニュージーランドからも支援が来た。世界の各国から多くの救援が来ている。地球人とはなにか。地球上に共に生きるということは何か。そのことを考える。
 泥の海から、救い出された赤子を抱き、立ち尽くす母の姿があった。行方不明の母を呼び、泣き叫ぶ少女の姿がテレビに映る。家族のために生きようとしたと語る父の姿もテレビにあった。今この時こそ親子の絆とは何か。命とは何かを直視して問うべきなのだ。
 今ここで高校を卒業できることの重みを深く共に考えよう。そして、被災地にあって、命そのものに対峙して、生きることに懸命の力を振り絞る友人たちのために、声を上げよう。共に共にいまここに私たちがいることを。
 被災された多くの方々に心からの哀悼の意を表するととともに、この悲しみを胸に我々は新たなる旅立ちを誓っていきたい。
 巣立ちゆく立教の若き健児よ。日本復興の先兵となれ。
 本校校舎玄関前に、震災にあった人々へのための義捐金の箱を設けた。(3月31日10時からに予定されているチャペルでの卒業礼拝でも献金をお願いする)
 被災者の人々への援助をお願いしたい。もとより、ささやかな一助足らんとするものであるが、悲しみを希望に変える今日という日を忘れぬためである。卒業生一同として、被災地に送らせていただきたい。

 梅花春雨に涙す2011年弥生15日。

立教新座中学・高等学校

校長 渡辺憲司



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by sleggar1121 | 2011-03-20 17:31 | 東日本大震災 | Comments(0)
2011年 03月 19日

『東北地方太平洋沖地震』

今日は午前1時からスタンドに並んだ。
携行缶へは10L入れることが出来たが、車のほうは私がならんだ丁度後ろの車を含む3箇所から整理券を配ったため、結果的にならんだ列の最後尾になってしまうという結果に・・・。
クレームをつけたが受け付けられず、車には給油できなかった。
その後は何もする気になれず、家にこもっていた。

今日から高田で携帯が使えるようになったらしい。
これで少し安心した。

出発は来週末の予定。
現地に行って、自分に出来ることはなんだろうと考える。
現地の悲惨な現状を見るのは正直怖い。
だけど、その現実から目を背けずに、現地で何が起きているのかこの目に焼き付けてきたい。

今日は、なんか疲れた。
ガソリンも買えるはずが買えなかったし。
明日も朝から並ぶので早く寝よう。
寝不足で頭が痛い。



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by sleggar1121 | 2011-03-19 20:15 | 東日本大震災 | Comments(4)
2011年 03月 18日

『東北地方太平洋沖地震』

3/16

この日、衛星電話で父から電話があった。
沢山聞きたいことがあったが、父の立場上長電話できないだろうと思い短い会話で電話を切った。
当日の状況を聞いた。

地震発生時、昨年から勤めている商工会議所からすぐに自転車で帰宅し、母と祖母と室内でかっているチワワを車にのせ、外でかっているビーグル2匹には『すぐに戻ってくるから待っててな。』と声をかけ山側へ非難した。
車で5分ほどのところにある工務店(自宅を建ててくれた工務店さん)さんの駐車場に車を止め様子を伺っていると、海側から土煙とともにものすごい音を上げながら津波が迫った来たそうだ。
裏にある土手を、祖母の手を引いて夢中で登り高台へと上がった。その時逃げ遅れ20Mほど後ろを非難していた男性は濁流に飲まれたそうだ。
まさに間一髪の状況だったそうだ。

この地区は、チリ地震津波等の津波被害を受けており、地震、津波に対する意識は高い。
私も小さいころから津波の話を聞かされ、地震が来たらとにかく高いところに逃げろと耳にたこが出来るほど聞かされていた。
しかし、このときは父にも『ここまでは来るわけがない。』という油断があったと話していた。
愛犬に『すぐに戻ってくるから。』と、声をかけたことからも伺える。

父との会話の中には決して弱気な言葉は出てこなかったが、『家も車も全部流されてしまったよ。』と話す声はいつもの父の声ではなく、どこか力の無い声だった。
実家の家は、地元では割といいとこのの育ちで大きな家に育った母のにために、そして家族のために建ててくれた家だった。
以前父は、『お母さんは※※の出なのに、前のうちみたいな家に住んでたら周りからなんて思われるかわからないだろ。だから、頑張って少しでもいい家に住まわしてやりたかったんだ。』と、私に話してくれた。そんな父の想いが詰まった家だった。
家や車、愛犬を亡くしたことを悲しむ暇もなく、毎日対策本部で戦っている父。おそらく心身ともに疲労しきっていると思う。早く会って声をかけてあげたい。励ましてあげたい。
現在祖母は盛岡の知人宅に非難し、母は現地に残って手伝いをしているようだ。
とりあえず父の声を聞けて安心した。


3/17
この日はAM1:00からスタンドに並んだ。
営業車と自家用車に3,000円分の給油が出来た。
これで車3台とも、おおよそ80%~90%の状態になった。
あとは携行缶を手に入れて、帰りのガソリンを確保する。
父や、母に届ける着替えも買った。
会社や知人に呼びかけて、いらない衣類を提供してもらえるようにメールをまわした。
早く高田に向かいたいが、ガソリンが手に入らない。
既に『SEVE TAKATA』というチームが高田入りし、ボランティア活動をしているらしい。
高田に向かうルートも安全なルートを探しているが、なかなか情報を得られない。
噂では、チームになって、物資を積んで入らないと検問で留められるとの話もある。
父の話では、安否確認に一般の人たちもきているとの情報もあり情報が錯綜している。
高田入りには峠を越えないといけないため、落石、土砂崩れ等のリスクを伴う。
正直、高田へ向かうのが怖い、不安もある。
でも、家族のために故郷のために、今協力してあげなかったら、今助けてあげなかったらいつ行動するのか。そういう現状になっている。
今こそ立ち上がらなければ。


3/18
今日は現地に届ける物資を少しでも確保しようと思い、妻にホームセンターに行って貰った。
オムツ、マスク、ウィットティッシュ、生理用品を買うためだ。
しかし、依然として宮城県も物資不足で、何かを大量に手に入れることは不可能に近い。
みんなが必要とする商品は、品切れか点数限定での販売となる。
どれだけ物資を集められるか・・・。
携行缶は社員の知り合いから10Lと5L、私の友人から10Lのものを借りられることとなった。
本当にありがたいことだ。
衣類も社員が何人か、会社へ持ってきてくれているらしい。



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by sleggar1121 | 2011-03-18 12:21 | 東日本大震災 | Comments(0)
2011年 03月 18日

『被災者の心』

今、陸前高田の避難所に居る、80歳になるおばあちゃんが話してた。



『私らみたいな年寄りが助かって、若い人たちが亡くなって・・・。生きててよかったのかねぇ。複雑だよねぇ。』

『家もなくなって、いつまでたっても帰るとこもない。』

『なぁんにも考えられない・・・。』

と、ゆっくり、搾り出すよな声で話してた。


生きることが辛いと思う人たちが他にもいるかと思うと辛くて涙がでた。
早くそんな心の傷が癒える日がくればいいと思う。



うつむくおばあさんの頬を、涙が伝った。



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by sleggar1121 | 2011-03-18 08:57 | 東日本大震災 | Comments(3)
2011年 03月 16日

『東北地方太平洋沖地震』

2011.3/11.PM2:46

クライアントの集金日。

鶴ヶ谷の小さなふとん屋さん。
もう80近くになるだろうか、いつもの笑顔で元気のいい社長。
お店は社長一人で切り盛りしている。

世間話をしていると突然の地鳴り。
一瞬会話が止まった。
次の瞬間大きな揺れが来て、『外に出ろー!!』と言う社長の声で外に飛び出た。
道はゆがみ、車が大きく揺れ、隣の瓦が落ち塀が崩れた。

記憶が定かでないが、かなり長い時間揺れ続けた。
揺れが来ると同時に家族へ電話を掛けた。
私『大丈夫か!?友は!?』
妻『大丈夫!今、抱っこしてる。』
私『何かあったら下の小学校で待ってろよ!』
妻『うん!切るよ!』
そこで妻との連絡は途切れた。

やっと揺れが収まると、隣のラーメン屋の奥さんが悲鳴とともに飛び出してきて、腰を抜かして道路にしゃがみ込んだ。
近所の人たちが『大丈夫でしたか!?』と出てきて、声をかけ合った。
大事だと思い、余震に気をつけるよう声をかけ、急いで家族の元へと車を走らせた。

途中、信号は消え、外壁は崩れ、大きなガラスが割れて飛び散る飲食店もあった。
人々は表情からは笑顔が消え、家路を急ぐ車でごった返した。

大きな余震が何度も来た。

萩町大通りを通り、4号BPに出る手前で一度車を止めた。
大きな余震が心配だったのと、4号に出て渋滞に巻き込まれることを心配したからだ。
一旦車を止め、車内にあったスニーカー、コート、懐中電灯意、飴、傘、ライター等、会社帰りにランニングするために車に積んでいたバックに詰め込んだ。
最悪ここから歩いて帰宅するためだ。
その間、店の外に出てみんなで様子を見る人々、ものすごいスピードで4号方向へ走る車、公衆電話に駆け込む女性。とにかくあたりは騒然としていて、物々しい雰囲気だった。
しばらくその場で様子を見たが、4号BP方面に行く流れは比較的流れていたので車を走らせBPへ出た。
BPはひどい渋滞などはなく、スムーズに進んだ。
しかし、信号は止まり交差点ではお互いに譲り合って進んだ。
仙台大橋手前から右折、長町方面へ向かった。
長町のタイガー?(パチンコ)前の道路は陥没していた。
歩道は家路を急ぐ人たちで混雑していた。
柳生から裏道を通って自宅へと戻った。

家族は近所の知人と車に乗り、建物の少ない場所で非難していた。
こどもは、地震発生時には泣いていたようだが、その後は落ち着いていた。
通信は不通で、会社とは全く連絡がとれなかった。
空からは雪が降っていた。


電気は停電していたが、幸い石油ストーブを使っていたので、それで暖を取り、お湯を沸かして夕食を食べた。
家中から使えそうなもの掻き集め、バッグに衣類を詰め込み、逃げる準備をして車に詰め込んだ。
その夜はろうそくで過ごし、家族3人一回のリビングで布団を並べて寝た。
光の無い部屋で、余震の恐怖に振るえながら過ごす夜は長かった。
情報は、自治会から渡されて物置にしまってあった非常威容ラジオ付き懐中電灯を使い、家族で聞き入った。

ラジオからは信じられないような災害の現状が伝えられた。
両親、弟、祖母の安否が気になって、ほとんど眠れなかった。



翌3/12、幸い天気がよかったため、1月につけたばかりの太陽光発電で電源は取れた。
水は、住んでいる団地は山の中腹にあったため、下の地区とは別に貯水槽があったらしく断水は間逃れた。
米は近所から分けてもらい、うちで炊いて各家庭に配った。
この日は八乙女から叔母がとその娘、その友人が非難してきた。
八乙女のマンションの中はぼろぼろで、各部屋の前にある通路は傾いているところもあったそうだ。
その夜は家族が増えたので、少し賑やかは夜になった。
息子の顔にも笑顔が戻った。

3/13
この日は新聞が入った。
新聞では福島の原発問題、そして陸前高田の航空写真が載っていた。
昨日夜に、携帯のワンセグ放送で大体の状況はつかめていたが、とてもショッキングな写真だった。
人口23,000人の故郷が、ほぼ更地のような状況になったいた。
以前両親の安否わからず。
その夜のワンセグ放送で、うちの実家の山側にある酔仙という酒蔵が、ものすごい勢いで濁流に飲まれる映像が流れた。
海岸線からはかなり離れたところで、すぐ上には避難場所の中学校がある位置だ。
衝撃的で、言葉が出なかった。
うちの実家が既に無いことは間違いない。
この、映像を見て家族のことは覚悟を決めておかないといけないと思った。


3/14
ガソリンが心細い。
自家用車と、乗ってきた営業車。ガソリンのメモリは半分を切っている。
もう一台の自家用車は会社の屋上に置いたままだ。
ガソリンスタンドは、ごこも停電で給油が出来ない。
食材は地震当日、自宅に帰る時にコンビニで買ってきたものと、昨日スーパーが緊急で野外販売をしていたため並んで買ってきた。
それとストック好きの嫁のおかげで、ある程度の食材は自宅にあったのが幸いした。

そしてこの日、新聞記事の中に父の名前が載っていた。
内容は、避難所になっている市立第一中学校で対策本部副代表を務めているとのことで、インタビューがのっていた。
これには家族全員で歓声が上がった。ほんとに嬉しかった。
その後、親戚からの連絡で、先に無事の確認が取れていた弟含め家族は全員無事とのこと。
ほんとによかった。これだけで精神的にほんとに楽になった。
しかし、この時点で千葉にいる同級生の両親、そのほか地元の友達の安否は出来なかった。

この日は地震発生後初めて会社に行った。
ガソリンが少ないので、八乙女に向かう親戚の車に途中まで乗せられ、箱堤交差点からはスケボーで会社まで行った。
会社には数人の社員が居て、社員の安否は確認できていた様だった。しかし、自宅を流された人や、父親を亡くした社員もいた。
会社は津波被害はなかったものの、外壁ははがれ、一部の天井は落ち、ロッカーは倒れ、ファイル等は事務所中に散乱し、とても手をつけられる状態ではなかった。
今後、営業出来るのか、とてもイメージできる状態ではなかった。
屋上にあった自家用車は停車位置から30センチほど前に移動し、45度傾いていた。地震のすごさを物語っていた。


3/15
この日は朝の6:00から近くのガソリンスタンドへ並んだ。
入れられたのは10:30ころ。しかも2,000円分。
ガソリンが不足し、緊急車両等にも行き届かない上体なのでしょうがない。
とりあえず自家用車の一台は、メモリ3/4まで回復した。
近くの団地まで電気が来ているので、もうすぐ電気は回復しそうだと思った。
この日も各地の信じがたい事実が、ワンセグ放送から流れてくる。
この世の終わりかと思うような画像ばかり。
いまだ余震が続く。





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by sleggar1121 | 2011-03-16 15:58 | 東日本大震災 | Comments(2)